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『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたクロ・リュセ城へ』ヨーロッパ写真日和VOL.302

こんにちは、吉田タイスケです。前回に続いてフランス、ロワール地方はアンボワーズから。イタリア・ルネサンスを代表する芸術家であり発明家、建築家、軍事技術者で、天文学、数学、音楽、物理学などにも功績を残した万能人、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたクロ・リュセ城をご紹介します。

こちらはアンボワーズ城からクロ・リュセ城までの道。その距離400mほどなので、ちょうど良い散歩道です。

道すがら路地から左側を眺めると、「洞窟住居」とでも言うべき家がいくつも並んでいます。

こちらも家と岩壁が一体化している、、、。これは一体、、、どんなホビット族が暮らしているのでしょうか←そういう話じゃない。

これらの洞窟住居は、元々城を建造するために掘った洞窟を利用して家や店を作ったのが始まりだったそうで、ロワール地方には「洞窟の町」として有名な場所もあります。全く知りませんでした。

一例はこちら。
https://visitetafrance.fr/trouver-une-activite/france/pays-de-la-loire/turquant/habitations-typiques/village-troglodyte-de-turquant/

そしてクロ・リュセ城までの道のりには、ところどころにダ・ヴィンチの格言が。「私たちは不可能を望んではならない」

「細部は完璧を生むが、完璧とは細部ではない」

そんな格言を読みながら飛行機雲に導かれ、クロ・リュセ城に到着しました。

イタリアに憧れ、その芸術と文化を愛した当時のフランス国王フランソワ一世の招きを受け入れ、1516年にレオナルド・ダ・ヴィンチは自身の弟子と「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」の三枚の作品を携えて、この地で暮らし始めます。その三枚の絵画が現在のルーヴル美術館の礎となったことは、前回のブログで書きました。

館を正面に見て右手、見張り塔の階段を上り、2階から中へと入ります。

回廊からはダ・ヴィンチが愛した自然、光、日々歩いたであろう庭園を望むことができます。これがダヴィンチ光か、、←そんなものありません。

さて、始めに足を踏み入れるのが、いきなり(?)レオナルド・ダ・ヴィンチの寝室です。ダ・ヴィンチはこの寝室で67年の生涯を終えました。後に弟子のメルツィが兄弟にあてた手紙の中で、死に瀕した床の中でダ・ヴィンチは「私は自身の芸術性にふさわしい仕事ができなかったために、創造主を侮辱した」と言って涙を流した、と伝えています。「あと5年生きられたら、本当の絵が描けるのだが」と死を前にした葛飾北斎が言ったと言われるように、天才たちにとって到達点というものはなかったのかも知れません。

部屋の片隅には、当時(15-16世紀)を偲ばせるプレートなどが展示されています。

しかし、いきなり臨終の部屋に通されても何というか、「ああ、ここにレオナルド・ダ・ヴィンチその人が生きていたんだ」という実感が、いまひとつまだ湧いてきません←オイ。

階下に降りると、アトリエへと続く廊下にダ・ヴィンチ像がありました。こんにちは、レオナルド←知り合いですか?

その向いには小さな礼拝堂が。ここはダ・ヴィンチがクロ・リュセに移り住む以前、一代前のフランス王シャルル8世が、幼い子供を次々に亡くして悲嘆に暮れる王妃アンヌのために建造したものです。

午後の光が正面のステンドグラスから差し込み、シャルル8世と王妃アンヌの話を聞かずとも、小さな礼拝堂に慈愛が溢れているのがわかります。ダ・ヴィンチもこの場所で創造主に祈ったのでしょうか。時代も何もかも超越していたレオナルド・ダ・ヴィンチは「キリスト教信者ではなかった」という研究もありますが、、。

続いて、当時の工房を参考に復元したアトリエ部屋です。

あらゆる事象に興味を持ち、膨大な手稿(ノート)を残したダ・ヴィンチ。天才はメモ魔でした。

しかしそのほとんどが失われ、現存するのは1/3の5000ページほどだそう(諸説あります)。あらゆる分野に関するこの手稿が19世紀に研究され、「万能の天才」としての評価を飛躍的に高めることになりました。よく知られるところでは1965年にスペイン王立図書館で発見された「マドリッド手稿」があります。この手稿はダ・ヴィンチの手が離れた時のままの状態と言われ、内容は手がけた研究の20%にも及ぶもの。その写しを岩波書店が解説本とセットで1975年に販売していましたので、ご興味のある方はぜひ。

馬しか移動手段がなかった時代に自動車、戦車、ヘリコプターを考案していた天才、ダ・ヴィンチの魅力は世界に散らばるこの「手稿」にこそあるのかも知れません。その一部である「レスター手稿」はかのビル・ゲイツが1994年にオークションで競り落とし、唯一の個人所有となっています(その紙片スキャンはウィンドウズ95の壁紙やスクリーンセーバーにも使われていました)。暗号のような鏡文字でノートを綴ったダ・ヴィンチ。レスター手稿の最後のページには知られざる世界の真実が隠されて、、(←妄想入りました)。

ダ・ヴィンチの博物学的興味の一端を示す、「こんな感じだったかも」のキャビネット。

アトリエに続いて、王国の諸侯やフランス国王フランソワ一世を迎えた大広間へ。王家の饗宴を計画し、宮殿の設計にも携わったダ・ヴィンチ。頻繁に訪ねてきたというフランス国王とどんな話をしていたのでしょう。

ダ・ヴィンチの厨房。彼はベジタリアンであったと言われています。

クロ・リュセ城地下に展示されている、ダ・ヴィンチが発明した戦車や旋回橋などの模型を一通り眺めたら、インスピレーションの源泉だったと言われる庭を歩きましょう。この庭に自生していた植物のスケッチが今も多く残されています。「理解するための最良の手段は、自然の無限の作品をたっぷり鑑賞することだ」とダ・ヴィンチは綴っていました。

庭園側から眺めるクロ・リュセ城。

クロ・リュセ城を出た帰り道、きっとダ・ヴィンチも眺めたであろう夕陽を見に、旧市街の高台へと登りました。

ダ・ヴィンチが用いた絵画の技法そのままに、空に広がる夕陽はスフマート。

自宅に戻ってからも、このブログを書くためにダ・ヴィンチの生い立ちや作品制作に関わるエピソード、残した言葉などを調べていたのですが、その中で特に気に入った一文がありました。なかなか「人間ダ・ヴィンチ」を今回の旅で感じられず困っていたんですが、この一言でやっと(?)レオナルドさんを一人の人間として想像できるようになったような気がします。

「猫科のいちばん小さな動物、つまり猫は、最高傑作である」 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ ―

次回のブログ更新もどうぞお楽しみに。

『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたクロ・リュセ城へ』ヨーロッパ写真日和VOL.302Takashi -タカシ-

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