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『KATE SPADE(ケイトスペード)が残したフランシス・バレンタイン』ニューヨーク・ニューヨークVOL.40

ニューヨークから、マディソンです。
マンハッタンは夏真っ盛り。この鮮やかで楽しげなバッグは、アメリカを代表する偉大なデザイナー、ケイト・バレンタイン・スペードの新ブランド、フランシス・バレンタインのバッグです。


(Frances Valentine)


(Frances Valentine)

例えばこのバッグでマンハッタンを闊歩すれば、一歩歩くたびごとにフリンジが揺れます。最初のバッグからも、自由ではつらつとしたアメリカ女性らしさが感じられますね。実はケイトは元々ファッション雑誌のアクセサリー専門の編集者で、夫のアーロンの勧めでバッグをデザインし始めたそうです。


(Frances Valentine)

それまではレザーや布がバッグの素材で、しかも女性たちの憧れは、パリやミラノの高級ブランドバッグでした。そんな折、初めてプラスチック製のデザイナーズブランドを発表したのがケイトでした。一時期ロンドンの女子たちの間では、ケイト・スペードのバッグがマストアイテムになったと聞いています。


(Frances Valentine)


(Frances Valentine)

今年の靴の流行はメタリックを入れるんですが、黒のスウェードに細い銀のストラップは、彼女の住んでいたマンハッタンのアップタウンの生活を彷彿させます。踵に金のサンダルの方はミッドタウンを闊歩するのにふさわしいですね。
つまりケイトのデザインは、ニューヨークの女性の生活を、いろんな角度からイメージさせてくれるんです。正式なデザインの教育を受けなかった彼女は、制約を全く取り払った自由な感性で、自分が持ちたいバッグ、はきたい靴をデザインしていったんです。
そんな彼女が今年6月突然自らの命を絶ってしまいました。


(Frances Valentine)

報道では、ケイト・スペード・ブランドが幾度かの買収で売り上げの減少傾向にあったことを苦にしていたのではないか、などと様々な憶測が流れました。でも私は、そうではないと思っています。
ケイトは1999年に高級デパートチェーンのニーマン・マーカスに56%株を売却して運営権を渡してしまっていました。2006年に、その株をリズ・クラリボーンが引き受け、その後、クラリボーンに残りの持ち株も売却してしまっていましたから。
42歳で出産したケイトは、その後新たにフランシス・バレンタインを立ち上げるまでの8年間、一人娘のフランシスと夫のアーロンと家族で暮らしたかったとインタビューに答えています。ただ長い間躁鬱病に苦しんでいたという家族の証言もあります。
2016年に彼女は母方の名前をミドルネームに加えて、ケイト・バレンタイン・スペードと法的にも名前を変えました。新ブランドは父方の名前で娘の名前でもあるフランシスに、新たに自分の名前に付けくわえたバレンタインを合わせています。彼女にとって家族はどんなに大切な存在だったことでしょうか。


実は彼女が突然亡くなる前のキャンペーンで、フランシス・バレンタインでは、子供の絵本でページの中からウォーリーを探す“ウォーリーは何処に?”さながら“ケイトは何処に?”というキャンペーンをしていました。サイトでは、マンハッタンの彼女のお気に入りスポットを紹介していたんです。
その一つがここ、メトロポリタン美術館でした。アートに囲まれて暮らしていた彼女ですが、住居すぐそばのこの美術館には、本当に足しげく通っていたそうです。

その後でよく立ち寄ったのが、やはり近所のこのカーライル・ホテルのバー。

人と会う折など、時間をつぶすのによく使ったのは、ライオンの像で有名な公立図書館でした。

実は公立図書館は観光名所でもあるんです。
熟年結婚のカップルが出てきました。結婚式をあげずに、市役所で婚姻届けだけを出した後、マンハッタンの名所で写真撮影をしているそうです。
どうか末永くお幸せに…。

一方ロックフェラーセンターにあるケイト・スペードのショップでは、ディスプレイが紙箱でできたマンハッタンの摩天楼になっていました。ケイトが心から愛したマンハッタン。彼女の明るく、楽しみ好きな精神は、間違いなく今もこの街に生きています。
ではまた、ニューヨークでお会いしましょうね。

『KATE SPADE(ケイトスペード)が残したフランシス・バレンタイン』ニューヨーク・ニューヨークVOL.40staff

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